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付:福岡県大牟田市釈迦堂の伝承
[龍造寺隆信略年譜]&[歴史的背景]
参考資料
1)長谷川為春「里に生きる幻の渡来仏像〜釈迦堂由来記〜」『文化議連』平成2年6月
2)仲井克己「筑後と肥後の七霊宮――七人の姫君の悲劇――」(『帝京大学福岡短期大学紀要』13、2001・3)
3)仲井克己「肥後から筑後に至る遍路道の伝承と信仰――海の文化と山の文化の交渉――」(『帝京大学福岡短期大学紀要』14、2002・3)
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)1529-1584 略年譜
参考文献
(1)三木靖「沖田畷の戦い」(『戦国合戦「古記録・古文書」総覧』新人物往来社1999年2月)
→龍造寺隆信が首を取られた沖田畷の戦いに関する基本資料の所在。
(2)『大日本史料』第11編6(天正12年3月24日)
(3)佐伯弘治「竜蔵寺隆信」日本史大辞典 吉川弘文館
(4)城島正祥・杉谷昭「龍造寺氏の台頭」『佐賀県の歴史』山川出版社1972年9月
(5)瀬野精一郎「沖田畷(オキダナワテ)の戦い」『長崎県の歴史』山川出版社1972年4月
(6)野呂邦暢「不知火のきょう雄――鍋島直茂」(『戦国軍師たちの戦略』新人物往来社1996年7月)
→龍造寺隆信陣営の内側を鍋島直茂の眼から見た小説。
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肥前国の大名。戦国時代末期、
九州は、豊後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信、薩摩の島津義久の3者が覇を競いあった。
龍造寺隆信の父の名は、周家。龍造寺隆信の幼名は、長法師丸。
天文4年(1535)出家。7歳であった。天文15年に龍造寺家兼が没したため、
還俗して胤信と名乗り水ヶ江龍造寺家を継ぐ。
龍造寺本家の胤栄は少弐冬尚のために佐嘉城を追われ肥前に帰った。
その後、大内氏に頼りつつ少弐冬尚を筑後に押し返したが、17年に没した。
天文19年(1550)7月1日、大内義隆から山城守に推挙され、
このときに「隆」の字を与えられ「隆信」と名乗るようになった。
天文20年(1551)、大友義隆没。
龍造寺隆信は、家臣の土橋家益らの反乱により佐嘉から筑後柳川の蒲池鑑盛シズモリのもとに逃れた。
天文22年、佐嘉城を奪い返す。
弘治元年(1555)、少弐冬尚、挙兵。しかし、龍造寺隆信はこれを撃破。
同年、神代勝利を攻め、筑前に追いやった。
陶晴賢の没後、龍造寺隆信は毛利氏に通じた。
永禄2年(1559)、少弐冬尚を滅ぼした。
永禄6年(1563)、有馬氏を滅ぼした。
豊後の大友宗麟は、龍造寺隆信に圧迫されている江上氏・神代氏ら手を差し伸べた。
大伴氏と毛利氏との対立が激化すると、龍造寺隆信は毛利側についた。
大友氏は、戸次(べっき)鑑連らを筑後の高良山に向かわせた。
さらに大友勢は、筑後から肥前に進み佐嘉城を攻めたが、龍造寺隆信はよく耐え、和睦に持ち込んだ。
元亀元年(1570)、大友宗麟は再び龍造寺隆信を攻めるため高良山に出陣し、
戸次鑑連らを肥前に派遣した。このとき、両陣営共に鉄砲を用いた。
元亀元年8月20日、龍造寺隆信は大友勢を撃破。その後、大友宗林麟と和睦。
元亀2年(1571) 勢福寺城主江上武種を降ろし、隆信の次男家種を武種の養子とした。
元亀3年(1573) 龍造寺隆信は、東肥前の少弐政興を攻め、さらに筑紫・横岳にも進軍した。
天正元年(1573) 上松浦地方の松浦一族(波多・鶴田氏)らを攻める。
天正2年(1574) 西肥前の平井経治を攻める。後藤貴明と和睦。
天正3年(1575) 龍造寺隆信、筑後に進出。
筑後国人田尻鑑種らを味方につけ、筑後平野を南下し、
吉野から三池に至り、三池鎮実を降ろした。
天正3年末 島原半島の大村氏を攻めるが和睦。
天正6年3月 有馬鎮貴(晴信)を降伏させた。
天正6年3月 筑前の早良郡に進出。
天正6年11月 筑後に侵入。さらに筑前に進出。
国人秋月種実・筑紫広門らが隆信に味方。
龍造寺勢は、筑前の大友氏の拠点を襲撃したが、成功せず和睦。
天正7年(1579) 龍造寺隆信一万の軍勢を率いて下筑後に出陣。
3月 三池鎮実(ミイケシゲザネ)を攻める。
このとき、三池から櫟野(イチノ)にかけて焼け野原になった。
さらに、肥後に進出。小代親伝を降ろした。
筑後国人蒲池鑑広を攻めて降ろし、筑後を平定。
天正8年(1580) 蒲池鎮並が反乱を起こす。11月に和睦。
筑前に進出し、博多を焼き打ち。
この年、龍造寺隆信は家督を政家に譲り出家。
天正9年3月 龍造寺隆信は、大牟田吉野の内山城を攻める。
4月 「赤星兄弟生磔」(『赤星』による)
内山城落城。ついで下内城を落とし屋山城に迫る。
しかし、この後4ヶ月にわたって左右の谷に囲まれていた屋山城は耐え抜いた。
龍造寺勢は、長命寺・長浦・野間の館を焼きさらに屋山城にも火をかけた。
このとき釈迦三尊像を奪い釈迦堂の堂宇を焼き払った。
(吉野の住人たちは、ひそかに釈迦三尊像を探し、龍造寺の菩提寺に安置してるのを知り毎年一度は参詣をしていた。)
5月 蒲池鎮並シゲナミを誘い出し殺す。
鎮並は、天文20年(1551)城を失った龍造寺隆信を匿った鑑盛の子である。
黒木実久ら国人が相次いで反乱を起こす。
龍造寺隆信側の有力国人である田尻鑑種も隆信に反旗を翻す。
(田尻鑑種は、薩摩の島津氏と手を結ぼうとした)
この年、瀬高清水寺も焼き討ちに遭う。
天正11年11月 龍造寺氏と田尻氏との間に和睦が成立。起請文を交換する。
このころ、島津氏は、次第に北上し肥後に進出。龍造寺と対立する。
島津氏と龍造寺氏とは和睦するが、龍造寺氏側についていた有馬鎮貴は島津側につく。
天正12年 島津義久は島原半島に進出することを決め、配下の軍勢を半島に送る。
天正12年3月19日 龍造寺隆信は海路島原半島の神代コウジロに上陸。三会ミエに進出。
龍造寺隆信勢は、25000人〜80000人(諸説により人数に幅がある)。
有馬軍5000~10000 島津軍1500〜3000 島原市の森岳城付近に本陣。
人数的には、龍造寺勢が圧倒的に有利であったが、有馬勢は鉄砲を多く持っていた。
また、島津勢は、選りすぐりの武将たちが「負けたら帰らない」との誓いを立てて薩摩を発ち、
島原に着くや自ら退路を断つために船を帰していた。
天正12年3月24日 龍造寺隆信は、進軍を開始。
【軍勢配置図は、『鍋島直茂譜考』(『大日本史料』12−6[P.233]、天正12年3月24日)参照。】
鍋島直茂は山の手を進み丸尾山に向かう。
後藤家信は海岸沿いに敵陣を目指した。
龍造寺隆信は、中道を森岳の本陣に向かった。
このとき、龍造寺隆信は大筒を使った。
城攻めでは大きな威力を発揮する大筒も、田畑の上に砲弾が落ちるだけで何の効果もなかった。
島津の軍勢は次のように囃し立てた。
肥前の大筒
無用の長物
鳥の糞がまだ怖い(えすかい)
龍造寺勢は突撃を開始。
行く手には柴垣が組まれ、大城戸が設けてある。
待ち受けるのは赤装束に身を固めた赤星の精鋭50人。
龍造寺勢に押され敗退するかのように見せ有馬・島津勢の待ち受ける罠の中に龍造寺勢を呼び込む。
鉄砲を浴びせかけられた龍造寺勢がひるんだすきに赤星勢が討ちに出る。
輿に乗っていた龍造寺隆信は、川上忠監タダカタが迫り来るのを初めは同士と思ったが敵と知り、己の運命を悟った。
そこで、隆信は「首の切り方を知っているか?」と尋ねたところ、
川上左京亮は「如何、是剣刃上の一句、そもさん」と問い返した。
隆信の答えは「紅炉上一点の雪」と答えたという(肥陽軍記)。
隆信が沖田畷で討たれたため、龍造寺勢は総崩れになる。
龍造寺勢の死者は三千人。負傷者は一万人に達した。
沖田畷オキダナワテには、龍造寺隆信の碑が残っている(島原市沖田二本木)
龍造寺隆信の首は実検の後に高瀬川(現在の玉名市)を越えようとしたところ急に重くなり運ぶことができなくなった。
高瀬川こそは、龍造寺と島津の境界線であった。そこで、玉名の願行寺に葬った。
現在、龍造寺隆信の墓は、佐賀市本庄町本庄の高伝寺にある。
武将たちのその後
戦いに負け落人となった鍋島直茂は、三会のあたりで敵に追いつかれたが、綾部新吾によって難を逃れる。
綾部新吾も命を長らえ、島原のキリシタン一揆制圧において鍋島勢の軍監として島原に赴いている。
鍋島氏は、戦国時代末期に豪農から身を起こした武将。
享禄3年(1530)に大内氏が龍造寺を攻めたときに、
鍋島清房は赤熊(シャグマ)という浮立の笠をかぶり村の祭礼のように見せかけて
大内氏を討つという手柄を立てたことがきっかけで取り立てられる。
龍造寺隆信が討たれた後は、鍋島直茂が領国の維持を図った。
天正15年(1587) 伊佐早(諫早)の領主西郷純堯スミタカは、
太閤秀吉が島津を攻めたときに島津に対する恩義により中立を守ったため、
秀吉は龍造寺家晴に所領を与えた。西郷純堯は抵抗するも叶わず、
伊佐早を追われ平戸に住む女婿の松浦鎮信のもとで匿われて没する。
天正16年 秀吉は、大村純忠がイエズス会に寄進した長崎・茂木モギと、有馬晴信が寄進した浦上を没収し、
鍋島直茂を長崎代官に任命。
龍造寺隆信の論理<新興の戦国大名の悲哀――桃太郎の物語――>
佐賀県の土豪でしかなかった龍造寺氏が肥前・筑後を中心に5ケ国またがる戦国大名に成長したのは、
元亀2年(1571)以降の約10年間のことである。
長年にわたる主従の関係がないため、家臣団は勝ち戦に乗じることによる利益の供与が目的であって、
龍造寺氏そのもの対する畏敬の念は希薄であった。
そのような状況において、家臣団を統率していくためには、
常に戦いを仕掛け勝利を得ることと同時に「敵」に対する徹底的な見せしめが必要であった。
龍造寺隆信による赤星兄弟の生磔は、戦国時代に生きる武将とその家族にとって予想された運命であった。
『赤星』の中でも、姫は
「科ナキ隆信様ヲ恨ミ申サン。増シテヤ親ノ赤星ヲモ恨ミ申サン。
恨ノアルハ中ヨリ作文ヲ上ケ玉フ隈部殿エ今生後生ノ恨アリ」
とあるのはそのような事情を説明した部分である。
恨まれた「隈府殿」も、土地の奪取が紛争の原因であることから、やはり戦国時代に生きる者の論理が表示されている。
桃太郎伝承は、
<黍団子を与えてもらうという「御恩」に対して、家来として奉公する。
この集団は、武力を持ち鬼ヶ島(他国)を征服することで裕福になる>
というプロットによって構成されている。
このような論理は、龍造寺隆信ら戦国に生きた武将たちの論理と一致する。
参考資料2
肥後国内の状況
参考文献
平野敏也・工藤敬一『図説熊本県の歴史』
森田誠一『熊本県の歴史』山川出版社 1972年12月
天正6年(1578)日向国の耳川の合戦において島津氏に破れた大友宗麟は、
肥後国における力を急速に失い、かわりに島津氏が台頭してくる。
隈部氏は、龍造寺隆信側につくが、隈本城主城親賢(ジョウ チカマサ)は、島津氏に近づく。
阿蘇氏は、大伴氏につく。
天正8年(1580)、島津義久は八代・葦北・球磨の三郡を支配する相良義陽サガラヨシヒを攻略。
天正9年9月、水俣城を落とす。
島津義久は、相良義陽に降伏の証として阿蘇氏を攻撃するよう命令。
天正9年11月、相良義陽は八代衆を率いて守山・小野から裟婆神峠を越えて
響ケ原(下益城郡豊野村)に陣を構え、
堅志田城(下益城郡中央町)や甲佐の阿蘇勢に攻勢をかけた。
阿蘇氏の重臣御船城主甲斐宗運は、勝利にわく相良勢を急襲し相良義陽らを討った。
相良勢は、八代を追われて人吉に封じ込められた。
天正10年(1582)肥後北部に進出した島津義弘は、
甲斐宗運を屈服させ龍造寺隆信に味方をする隈部氏に攻撃をするよう命じた。
天正10年12月4日には、小森田氏の居城日比良城(玉名市菊水町)を陥落させた。
天正12年、島津義弘は龍造寺隆信を討ち取る。
天正12年9月、肥後北部の隈部・山鹿・臼間野・辺春・小代の各氏は、島津氏に臣従を誓った。
天正14年1月、矢部「浜の館」の阿蘇惟光を降伏させ肥後を制圧した。
参考資料3
天正9年のできごとについて。
巡礼の道を北から辿れば次のようになる。
叡興寺(曾我兄弟)――虎坂――地蔵渡し(赤星)――平の里(現人神)
――吉野(釈迦堂)――三池――樺(西行)――高瀬(願行寺)
1) 龍造寺隆信、山門郡の清水寺を焼亡。(瀬高町)
2) 龍造寺隆信、地蔵渡しで赤星兄弟を生磔に処す。(高田町)
3) 龍造寺隆信、吉野の釈迦堂焼亡。(大牟田市)
これらは、平家落人の道に重なります!
1) 緒方惟能、清水寺を焼亡。
2) 源平、要川の戦い。
3) 平家落人、平に隠れ住む。
4) 平家落人、吉野に隠れ住む。
福岡県大牟田市釈迦堂の伝承
参考資料
1)長谷川為春「里に生きる幻の渡来仏像〜釈迦堂由来記〜」『文化議連』平成2年6月
吉野釈迦堂に関する補注
609年高句麗より釈迦如来像が日本に到来。肥前に到着。
いったんは上洛を志し、大和村の漁夫の先導により12月晦日の晩に、
肥前より対岸の黒崎目指して有明海に漕ぎ出した。
船は漁業用のたき火の産地でもあった上内の怒縄田ヌナワダのサンカボの船つなぎ石に船を泊めた。
中島長者と相談し、上内の本山に仮の堂を建て釈迦如来の本山とした。
現在「茂登山」と称するのは、このようないわれがあるからである。
山頂には清水がわき出る泉がある。干ばつの時にも涸れたことがなかった。
釈迦如来の光は、有明海に輝いた。
平安時代(万寿・長元1024〜1036)は天台宗に属し、怒縄田に長命寺を建てた。
文治2年三月15日(1186)七堂伽藍が建立された。