参考資料1 人鬼親宗 母親は、大友宗麟から賜った 外国の女性であった。 青い眼をした彼女は、 「私が死んだら、 海の見える山の頂に葬ってほしい」 と遺言を残したため、 山の頂に葬られた。 田中城が落城すると、 人鬼は母親の眠る山の頂に登り そこで自害したと伝えられる。 参考資料2 豊臣秀吉の九州東征 参考資料 1)松本寿三郎・板楠和子 ・工藤敬一・猪飼隆明 『県史43 熊本県の歴史』 山川出版社1999年4月 2)中野等『立花宗茂』人物叢書 吉川弘文館2001年1月 3)三加和町史 天正15年 3月 豊臣秀吉が九州に進出。 4月11日 南関に入る。玉名筒ケ岳小代伊勢守開城。 4月16日 隈本城(城久基を降ろす) 4月19日 八代城 4月25日 佐敷 4月26日 水俣 5月8日 薩摩の出水において島津義久・島津義弘・新納忠元を降伏させた。 5月27日 水俣 6月2日 隈本 南関で佐々成政を肥後全土の国主に任命。 6月7日 箱崎 九州の国割 秀吉が佐々成政(サッサナリマサ)に5ケ条の定書を与え、肥後国支配の基本事項を示した。 1) 52人の国人、先規のごとく知行相渡すべき事 2) 3年検地あるまじき事 3) 百姓等痛まざるよう、肝要の事 4) 一揆起きざるよう、遠慮あるべきの事 5) 上方普請、3年免除せしむの事 注: この5ケ条は『圃庵太閤記』に拠るが、宛名が佐々内蔵助となっている。 しかし、5月晦日に国衆相良長毎・大矢野種基に領地安堵の朱印状を交付しているが、 これには「羽柴陸奥守に与力せしむ」(「大矢野文書」)とあって、 この時点で佐々内蔵助は羽柴姓で陸奥の守になっている。 従って、『圃庵太閤記』の5ケ条は、 一揆が起こったことの責任を問われて佐々成政が自害を命じられる事に対して 整合性を持たせるための偽書である可能性もある。 (参考:「秀吉の九州征伐」県史43『熊本県の歴史』1999年4月) 国主である佐々成政は、52人といわれる国衆に領地を分配し、 知行目録を交付しなければならなかった。そこで国衆の所領を調査しようとしたが、 国衆は秀吉に安堵された領地権の侵害だと感じ取った。 戦国時代、肥後は大友氏・龍造寺氏・島津氏によって三分され激しく戦ってきた歴史があり、 新領主佐々に対して抵抗も強く国衆一揆へと発展した。 国衆一揆は、菊池郡隈部但馬守親永が検地を拒絶したことが原因となって起こった。
天正15年8月 佐々成政は、佐々宗能(ムネヨシ)に討伐を命じたが反撃される。 そこで、佐々成政は、自ら家臣と国衆を率いて 6000人を率いて隈府城を攻めた。 隈部親永は息子の山鹿親安の山鹿郡城村城に、住民13000人とともに籠城。 城の中にこもった有働大隅守らは、佐々の非を訴える檄を飛ばしたので、 寄せての国衆の中からもそれに呼応する者も現れた。 御船城主甲斐親房は、赤星・城・詫間氏らとともに 35000人の兵をもって隈本城に迫った。 佐々成政は、城村城に付城を構築し 隈部氏を封じ込めた後に、 隈本城に兵を返し一揆軍を坪井川で撃破し隈本城に入った。 立花宗茂、佐々成政の付城に兵糧を運び入れたその帰路、 大津山・和仁・辺春らの勢力がここかしこに待ち受け立花勢を遮り討つ。 立花宗茂は先頭に立って駆け崩し柳川に戻ることができた。 このとき、大津山の家老北野出羽守中原村の石橋で床机に腰掛けて命令を発していたが 蒲池家の家人川島九助、十八歳の若者であったが出羽守を討った。 (『肥後国史』玉名村南関平野村) 隈本城を押さえた佐々成政は、柳川の立花宗茂に援軍を要請。 宗茂は2000人の兵を率いて参戦。城村城を攻めた。 また、安国寺・鍋島・立花勢は、和仁親実や辺春親行らが立てこもって 抵抗していた田中城を攻め落城させた。 太閤秀吉は、任命後一ヶ月もしないうちに失政によって一揆を起こさせた 責任を佐々成政に取らせ天正16年閏5月14日に尼崎で切腹させた。 15日には、肥後国北半分194900石を加藤清正に与え、残りを小西行長に分けて与えた。 秀吉は、一揆に荷担した者は一人残さず誅伐すべしと命じたため、 隈部親永は立花氏、山鹿親安は毛利氏に預けられ処刑された。 一揆棟梁人イッキトウリョウニンとされた隈部親永は、 立花領内に150人の侍を従えて仮寓していたが、 天正16年5月27日立花宗茂から面談申し入れられ精鋭20名を連れて柳川城に向かった。 秀吉から討伐を命じられていた宗茂は、城下の黒門で隈部親永を討ち取った。 天正16年1月20日 一揆の残党討伐のため浅野長吉以下7人衆と兵20000人を派遣。 3月に肥後に入り、 山鹿に生駒親正、菊池に蜂須賀家政、隈本に浅野長吉、 八代に福島正則、宇土に加藤清正、戸田勝隆、小西行長、 内牧に毛利勝信、御船に黒田孝高が入り残党の掃討を行った。
和仁合戦で、 もっとも激しい戦闘場面の舞台となった岩壁。 七地蔵が彫られている。 牛島藤七と松尾日向の一騎打ち。 松尾が打ってかかれば、 牛島も心得たりと受けとめて たがいに剣の道の奥義をきわめた豪の者であったため、 秘術を尽くして戦った。 しばしの間の戦ったが、勝負はつかない。 牛島は太刀を投げ捨てて仁王立ちになり、 いざや組んで勝負をつけようというと、 松尾も「それは、望むところよ」と、 同じく太刀を投げ捨てて、 肩を並べてむんずと組んだ。 もとより覚悟の松尾日向は、 牛島藤七もろともに、 岩瀬地蔵の岩鼻より谷に落ちて死んだのであった。 じつに、あっぱれな最期というべきであろう。
母親と姫君(七人)が入水した淵の上に 七郎神が建っています。 [川の水が瀧となって注ぎ込む淵] という場所の特徴は、 山川町の七霊神や 菊池市の七坪産神社 と同じです。 ただし、現在は、川の上を道がとおり、 そばにトイレがたっていることもあって 今では、 小さな瀧があったことはわかりません。 母親は、下流に流されて神になり、 和仁石宮に祀られています。 そこは、江田船山古墳の対岸にあたり、 菊池川河口の玉名に向かう船が、 潮待ちをするところであった。 川から急な坂を上ると和仁石宮に着きます。 ただし、現在は、 菊池川と和仁石宮との間に道が通ったため、 川から宮に至る参道は消滅しています。
男岩 女岩 日本の信仰の、始原の姿。 一族の繁栄に対する祈りは、 「天つ罪」(村落共同体の維持が目的) 「国つ罪」(家族共同体の維持が目的) とも関連して、 文化論としては、きわめてたいせつな視座です。 ← 鉄の杭を、 鉄の細い棒で たたいて 子宝に恵まれるよう祈願します。
五穀豊穣 一族繁栄 一家安泰 息災無病 そして、 子宝に恵まれること などが、 その土地の神々に求められてきました。 熊本県三加和町の七郎神は、 信仰の始原の姿を保った貴重な神です。
Tommorow will be fine!
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