三加和町には、豊前街道が通り、温泉もありました。
三加和町には、多くの伝承が残っています。
とくに以下の3つの伝承について、関連する資料を掲載します。
1)平家落人伝承(源平の合戦:菊池隆直と関連して)
2)梶原伝承(鎌倉時代初期)
3)和仁伝承(豊臣秀吉の時代)
参考資料
1)肥後国史
2)三加和町史
3)仲井克己「筑後と肥後の七霊宮――七人の姫君の悲劇――」
(『帝京大学福岡短期大学紀要』13,2001・3)
4)仲井克己「肥後から筑後に至る遍路道の伝承と信仰――海の文化と山の文化の交渉――」
(『帝京大学福岡短期大学紀要』14,2002・3)
平家伝承
寿永2年(1183)8月17日
平家は安徳天皇とともに大宰府に到着。
一行の目的地は、肥後の国。
しかし、大津山の関(松風の関)を菊池隆直が塞いだため、肥後の国へ入ることは絶望的になった。
『平家物語』「名虎」
(寿永二年1183)八月十七日、平家は筑前国三笠の郡太宰府にこそ着き給へ。
菊池二郎高直(隆直)は、都より平家の御供に候ひけるが、
「大津山の関あけて参らせん」とて、肥後国にうちこえて、
おのれが城にひッこもり、召せども召せども参らず。
三加和町は、大津山の関(南関)から豊前街道を山鹿に向かったところにある。
三本の川が流れ、それぞれに平家と関係した伝承が残っている。
岩村川(最も山鹿よりを流れる川)の伝承は、平貞能の家人であった荒巻大膳が中心になるが、
菊池隆直と関連して考えるべきであろう。
菊池隆直は、田業阿蘇神社を再興。
緒方惟能が大宰府を急襲したのは、寿永二年十月二十日(『玉葉』)。
岩村阿蘇神社は、安徳天皇が大宰府から追われた直後の勧請。
岩村川の上流には、平山村がある。
同村は、<阿蘇大明神が一夜のうちに高い山を開き、
深い谷を埋めて平らにして温泉を出した>との伝承がある。
延歴年間河内に阿蘇五ノ宮を勧請している。
平山城は菊池一族の居城であり、平山三ケ寺の一つ正蓮寺は菊池隆直の菩提寺であり石碑があったという
(『肥後国史』山鹿手永「平山村」 )
岩村
岩村川の流域。岩村川は、平山村の山野から南北に流れ、高瀬川に流れ込む。
平山温泉に至る道沿いに位置し、湯治客などで賑わった。
高瀬川から平山温泉に至る道には、
瑞岩禅寺(釈迦・文殊・普賢、ほかに阿弥陀堂があった)・光行寺(真言宗東本願寺末寺、当初は西本願寺)
・寶持寺(地蔵)・至源寺(釈迦)・洞泉寺(釈迦)・西蓮寺(観音)の各寺院が並び、
くわえて瑞岩禅寺の鎮守として松尾大明神社が祀られていた。
▼松尾大明神
瑞願禅寺の鎮守。建立された年代は不明。
寿永年間に平貞能の家人であった荒巻大膳が勧請。
瑞願禅寺 本尊 釈迦・文殊・普賢の各菩薩。
阿弥陀堂
岩村川沿いに、寺院が並んでいた。
天神社 妙見社 六地蔵
光行寺 浄土真宗東派 本願寺末寺
寶(宝)持寺 真言宗 本尊:地蔵
至源寺 禅宗 本尊:釈迦
洞泉寺 本尊:釈迦
西蓮寺 本尊:観音
上岩村(岩村のうち)
田宮大明神宮 往古は、田業大明神と称した。
菊池隆直(菊池家6代)以来、田宮と称する。
一条天皇の御代である長徳2年阿蘇郡(津?)比唐勧請し阿蘇二宮と称するようになった。
岩屋権現 (中)天照皇大神宮 (左)大巳貴命 (右)山祇命
播磨の赤石郡より勧請。疫神。
早鷹天神 円融帝天禄3年国主清原元輔家人立山兵部藤原重信という者、霊夢によって勧請。
上太田黒村
梶原霊社 上太田黒の内の梶原というところにある。往日、地中より像を掘り出し祀る。
梶原氏の宅地の址である。
板楠村
ヘンジ淵 「平氏淵」とも称される。
板楠川 広さ十間 深さ二間
南関志によると、寿永年中、平家一族がこの淵に身を投じたため、平氏淵というようになった。
石見権現宮 宇摩志摩治命を祀る。
この神は、アマテラス大神の曾孫である。石見の物部神社に祀られている。
物部守屋のご先祖様である。
寿永年中梶原平三景時、肥後に下向し岡原に住む。
板楠景貞は、景時の末葉であって、代々板楠を領地とする。
岡原に在城し、板楠を家号とする。
景時の妻は石見の物部神主の娘であった。
その妻が重病に陥ったために、産神(ウブスナガミ)である物部明神を祈ったところ平癒した。
そこで寿永元年十一月十五日に物部石見権現を勧請したのであった。
西光寺医福山
行基開基 建立の年代不明。
本尊の薬師仏 行基の作
行基、一本の木で三体の薬師仏を彫る。
南関の西福寺の本尊
瀬高の談義所本尊
上板楠村
岡原城 天文年間 板楠豊後守平景貞の嫡子、景次が城に住んだ。
天正年間 落城。
菊池隆直
参考文献
杉本尚雄『菊池氏三代』吉川弘文館 昭和41年3月
反平家(菊池と緒方は、呼応しつつも行動は別々)
肥後:菊池隆直を中心に、木原次郎盛実法師・南郷大宮司惟安コレヤス
(阿蘇・合志・木原地域の在地豪族が中心)
南郷大宮司惟安は、阿蘇神社の大宮司。
当時の阿蘇神社は、10に及ぶ私領を持ち、南郷城に居住し、
神官神人集団・阿蘇山上祈祷寺院の宗徒集団や一族の武士団を率いて年貢の横領などをたびたび行っていた。
木原盛実は、益城郡木原・砥用の開発領主。
阿蘇系の甲佐神社の権威を利用しながら勢力を広げた。
合志太郎は、合志郡竹迫を居城とする土豪。
豊後:緒方三郎惟能を中心に、大野六郎家基・高田次郎隆澄が勢力を誇った。
平家方
原田種直が、2000騎を率いて合戦。
菊池隆直について
肥後国を実質的に支配し、領主化への道を歩んでいた。
平氏による支配は受け入れがたく、平氏と対立することになる。
治承4年9月 菊池隆直を首謀者とする兵乱が九州肥後国で起こった。
勢力は数万といわれる。
平清盛は、懐柔策を採る。
治承5年正月 菊池隆直に対して謀反人追悼の宣旨が下る。
原田種直・山鹿秀遠・板井種遠らが鎮定を図った。
2月 清盛病死
原田種直を大宰権少弐に任じて、隆直追悼の宣旨が発せられたが事態の収拾はできなかった。
8月 菊池隆直、肥後国司に任ぜられる。
(反乱の首謀者である隆直を取り込むことによって事態の収拾を図った?)
しかし、菊池隆直は大宰府攻撃の意志を変えなかったため、解官。
平貞能を肥後国守に任命。隆直討伐と兵糧米の徴収を任務とする。
平貞能の父である平家貞は、日向通良のランを鎮圧した武将。
寿永元年 飢饉。
4月 菊池隆直降伏。
貞能は京都に凱旋。
Tommorow will be fine!
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