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熊本県三加和町 [田中(和仁)城]

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和仁城合戦

本文
和仁城合戦(大衆芸能資料集成3巻 三一書房 昭和57年)

それ、つらつらおもんみるに
邪にありて奢(おご)る者は久しからず、
たとえばここにしられける。
さるは人皇御代はじまって百七代の御帝、正親町の院の御宇、
当時の武将は是、さきの関白太閤秀吉公、
六十余州を切り従え、音に聞えし山城の伏見の城に御座を据ゆ。
其比九州もっぱらに争う国は島津の一統、武勇にほこり隠しもならず、
時の将軍秀吉公ひそかに嶋津征伐せんと、
ころは天正十五年寅の卯月半より大名小名随えて薩州さして下らるる。
ここに九州肥後の国玉名の郡和仁に
和仁の自休親長とて田中の城に居住あり、代の末四人もち給う。
御家惣領姫君には浅香の前とておわします。
御年二八に足らずして一族辺春城主能登守親行に縁を結ばせ給いける。
御家を継ぎ給いける和仁の勘解由親実とて強勇無双の兵なり。
三男弾正親範とて兄に劣らぬ強勇なり。
末子は人鬼親宗とて面は赤く目は輝き髪は左右に生分り手足は熊の如くにて、
さながら鬼の粧也。
父の自休もこの子をは人鬼とぞは名付たり。
御家を守る郎等には松尾日向守親種、一子同名市正、中村治部の少輔、原野藤弥太親宣、草野隼人宗晴とて、
さてその外の諸侍日夜の出仕隙も無く君を守護し給いける。
さて又、勘解由親実は薩州征伐聞き及び、肥後と筑後の国境、北の関まで出迎い先手の人数に加わりて
薩州攻めの合戦に度々軍功ありければ、本領を取らせんとて、
和仁村吉地十町に山鹿郡では芋生村、筑後の国は白木谷、辺春とともに本領は首弐十町とぞ聞えける。
さて又、一族能登守、辺春の城に居住する。
能登守が一族常陸の入道喜運とて一子摂津守は是より遙か引き放れ、
山鹿の郡苧生村十二町を領地して芋生摂津守親友と名乗り芋生の城に居住あり。
然るに肥後は小城も多く、しはらくも合戦とどまる時なし。
是によりて大関より、この騒動を治んため、佐々陸奥守成政を熊府の城に下し給う。
成政欲心深くして治めはせずに攻め取りて亡す小城も多かりしが、
田中の城も攻んとて、使者を差し越し給いける。
くと開くより田中城武勇に猛るものどもなれば、はや籠城の用意をせんと城を守るぞ不敵なり。
 此の度田中の城内にたてこもりたる人々には城の大門、日明口、かためたる大将には
和仁の弾正規範、松尾日向を初めとし其勢都合百五十騎、鉄砲組は三十人、射手の達者が三十人、用心きびしく相守る、
北の大手の宮嶽には和仁の人鬼親宗が市正を初めとし是も同百五拾騎、鉄砲組が弐十人、射手も同二十人、
手ぐすね引て待居たり。
新城口と申すには
中村治部の少輔が百五十騎を引率し鉄砲組は三十人、弓取武者が二十張、長柄の鎗が二十筋、
御本丸を守りしは辺春能登守親行が家の子郎等三百余騎、砲是に百艇、弓取武者が八十人、大身の鎗が五十筋、
さて二の丸には
惣大将和仁勘解由親実は是も首騎を随えて鉄砲組が三十人、弓取武者が弐十人、長柄の鎗が三十筋、
又浮武者の大将には
草野の隼人宗晴が百五十騎を引率し鉄砲組が三十人、弓取武者が三十人、長柄の鎗が三十筋、都合其勢一千余騎、
六手に分てめしおくこと厳重に見えにける、
此事四方に隠れなし。
佐々成政聞くよりも小ざかしき和仁の城の奴原共、
反目をいたすこの上は、ただ一戦に踏みつぶし国家おさめて安堵せん、
はや着到とありければ、松原直光畏り墨すり終り筆を染め先ず一番につけたるは佐々陸奥守成政、
御大将とぞしるすなり。
二番に松尾五郎兵衛直元、
侍大将には津田の与兵衛国行、直元が舎弟直重、牛島藤七、同藤弥太、神保弥五郎、杉野の又市、
つけてあげたる着到は八千余騎とぞしるすなり。
陣鐘、陣具、陣太鼓、御馬印や籏印、風の目の間に吹なびかせ、
此は寅の十月下旬、熊府の城を出馬して田中の城と押寄しはすさまじかりける次第なり。
まことに田中の城内は如何成べき次第ぞとあんぜぬ者ぞなかりける。

     第二
佐々陸奥守成政は
八千余騎を引率し田中の城に押寄て、大手搦手境手陣をすえ、ときをどっとぞあげにける。
然る所へ立花内より加勢の軍兵、鍋島方より加勢として駒を早めて
一度に田中城と押寄せ宮嶽、芝塚、境原、日明口に陣を張る。
場所なき処に一万余騎、山谷々々も押しなべて雲霞の如くに見えにける。
佐々成政城の要害御覧じて、如何に方々、この城はまわり五町に足らざる小城、
一千ばかりの小勢にてたてこもりたる親実が衆の不敵さよ、
ただ一もみに攻め落せと、
さいはい取て振りあぐれは、はやり切たる若武者共、我劣じと攻め寄せる。
さて一番に進みしは、
松原五郎直元、黒皮縅の鎧を着し、小手脚当に角甲、長身の鎗を引っ提げて陣頭につっ立、
ただ今是に出たるほ、佐々陸奥守成政公の御内において松原五郎兵衛直元とは身がことなり。
望みの者あらば出向うて勝負あれ、手並を見せんと呼はりたり、
城中よりも武者一騎、紺糸縅しの鎧を着し筋甲を猪首に着なし、
小手肘当も花やかに城門開て飛んで出、小高き処につゝ立ち上り、
ただ今是に出たるは城内に隠れなき春野藤弥太親宜なり、
あら聞き憎き雑言かな、ここの当りが所望ぞと胸板叩いて待うけしは目を篤かすばかりなり、
いで見参と直元が透かさず鎗をとりのべて、
ただ一突に突懸るを藤弥太ひらりと身をかわし鎗の鵜の首むんずと握り
松原五郎直元が力に任せ引きけれども、藤弥太すかさず引く程に、互いに劣らぬ大力、
えいやえいやと引き合いしがついに鎗の柄まん中よりふっと切れて双方がえのころ居りに伏しにけり。
続いて立花方よりも由布大炊助馳け合わせ、
つけ入らんとせし処へ中村治部の小輔が三人張に十三束、
からりとつがい引しぼり切って放せばあやまたず、大炊助が胸板を背骨にかけて射通せば、
なにかはもってたまるべき、鎧蹴放し落たるは無残なりける次第なり。
是を軍の初めとしてひるまぬ寄手の軍兵ども、かかれかかれと呼ばわって攻め入らんとする処へ、
城内よりは、なお引き寄せ、
弓矢取て打つがえ差し詰め引き詰め射る程に敵にも名ある兵を弐百騎計は射落したり。
もはや矢種子もつきけれは、いざや馳けんと城兵は思い思いに装束かため大門開いて切って出、
多勢が中に割て入る。鎬を削り錺を割り、向て来るはから竹割、逃んとするを大けさ落し、
組んでかかるは十文字、秘術を尽して戦いける。またたく間に敵の勢、六有余人を討取て、
ときの勝どきどっとあげ、城内になりぬれは味方の勢を攻るに薄手の者は五六人、
壱騎も討死無き故に、先ずは目出度々々と軍の門出祝いける。
軍神には神酒捧げ、各酒宴に及びける、
されは寄手の陣処には、大将成政諸軍を集め、内議評定とりどりなり、
如何に方々、かく大勢もって、この小城落すこと叶わぬは残念の至りなり、
味方は損し勝利は得ず、誠に城の要害能く兵糧多く貯えて士卒同心するゆえなり、
如何はせんと成政もさしうつむいていたりしが、
ややあって工夫をかため、松原直元を近く招き、
如何に直元、要害かためのこの城に、勇気の武士が守るゆえ、味方の勝利少なかり、
某が存ずるには、辺春能登守親行は欲心深く義を知らず、
表裏の武士と開くゆえに彼等を能も欺いて大将親実を討たすべしと、
俄に箭文をしたためて、出丸かためし親行に、この一通を届けよと、直元にぞ射させける。
親行矢文を取上て、開いて見れば其文に、此度の一戦は、和仁兄弟を討たんため、さて其の以下は罪はなし、
其元親実が首を取り、降参を致さるべし、
さあるにおいては、本領の上に、和仁が領地を加増すべし、辺春能登守どの、成政送ると書きたりける。
親行大きに悦び、すぐさま返事を認むる、其文に日く、
仰せに任せ、此上は親実を討ち取て、合図の火の手をあげ申さん、共時、攻入り給うべし
と、矢文をかえし、それよりも親実討んとはかれども、
さすが武勇にたけたれは、如何はせんと能登守案じてぞ居たりける。
まことに親実の御身の上は如何はなるべき次第ぞと、思わぬ者ぞなかりける。

     第三

さればにや、
能登守親実討たんべき折もなく其夜を過して居たりしが、
ここに勘解由が近臣に、うその蔵人只宣とて弁才有りとは申せども勇気少なき、
その故に親実彼が性を見て、此度の戦いに一方の将ともなさず。蔵人是を恨る体、
能登守能く知って或夜ひそかに招き寄せ、成政公の矢文の始終かようようと話ければ、
蔵人開くより打ち悦び、わが親実を討つことは何よりもっていとやすしと手に取るように申さるる。
親行も悦んで、必ず人にしられなよ、少しも気づかい御無用と密事を抱き、
蔵人は本丸さしてぞ上らるに、既に其夜も暮れ果てて、うその蔵人只宣は、
覚の短刀抜き持ちて、夜半はかりに親実の寝処に忍び入りたるは、大たんにも又不敵なり。
ころは極月六日の夜、暗き今宵を幸いと、差足ぬき足探り寄り、
ゆめにも知らぬ親実が首をふっと掻落し引提げ出る表の方。辺春がもとへとかえりしは、武士に似合ぬ振舞なり。
能登守に見せけれは、でかされたり蔵人殿、いざこの上は諸共に、成政公の味方ぞと、
親行蔵人両人は、相(合)図の火の手を揚げければ、
寄手は火の手を見るよりも、すはや今ぞと一度に駒を並べて攻め寄する。
能登守親行も本丸に火をつけて蔵人来れと両人が、いよいよ寄手に加わりて一手となって攻立る。
折節吹来る風はげしく、火炎の燃え立つ其勢、さしも聞ゆる田中の城、
一時の煩と亡びしは、運のつきめと見えにける。
ここに哀れをとどめしは、御台所おまきの方、そのころ三月の懐胎なり、
御惣領につた姫君とて五歳にならせ給いしが、おまきの方のおんなげき、
殿は賤しき蔵人が手にかかっての御最後、城も一時の煙と成り如何はせんと御台様、
その儘そこにどうと伏し、たださめざめとなげき給う。つた姫君も諸共に何となりなん、
かなしやとうち伏し給たうぞ理なり。
あるにあられぬことなれば、和仁の人鬼親宗は原野藤弥太ひそかに招き、
如何に親宣承われ、かく落城となる上は、兄が妻子を是よりも光浄山長寿院に送り届て参れよ
と、仰せにはつと藤弥太は畏り侯と、御台所に両手を突き、
申し上げます御台様、御両所共に此処に御座有ては敵のとりことなり給わん。
それがし御供仕らん、片時も早く落ち給えと勧め申せば、
なくなくも裏道伝いにようようと原野藤弥太おん供で長寿院へぞ落給う。
はやこがらしの物凄く敵に見られじ知られじと、夜半に紛れてようようと東勝寺へぞ入り給う。
原野藤弥太近宣は清長坊に手をつかえ、夜中に案内申すこと余の儀にあらず殿の討れ給うゆえ、
もはや保ちがたくなり、御台姫君御供し是まで参り候なり。
何卒御身の情にて三池小野の何某は和仁一族のことなれば
御台所姫君を送り届けて給わらば生々の御恩たるべしと申上れば、
清長坊、其儀は少しも気づかいあるな、ともかくも計らんと、只やすやすと請け給えば、
原野藤弥太悦んで、偏に頼み奉る、
いざ、この上は我々は敵の奴原一ト泡吹かせ、いさぎよく討死せん、
はや御暇といっさんに田中の城に馳せ帰る.
ここにまった親範が妻のまがきと申せしは、
姫の菊重ともろ共に城内をしのび出、供も連れずに只二人、其夜は行方知れざりける。
田中の城の人々は、心にかかるものもなし此の上は命限り働んと味方の勢を改むるに現実討れ給うより、
はや散りぢりに落ち失せて残る兵者四十五騎、弾正怒り甚だしく、
やあ言い甲斐なき味方の奴原、是も田中の運命かな、口惜しき次第やと歯がみをなして弾正は、
桶皮胴の大鎧、鍬形打たる星甲、
猪皮の腕ぬきに虎の皮のもみ足袋をあぐち高に踏みこんでよき大太刀横たえたり。
続いて人鬼親宗は紺地の鎧に星かぶと、いがもの作の大太刀佩し、
その余の兵の四十五騎、思い思いの装束に思い思いの大太刀佩し、
鯨波をつくりたち勇み進んで散々に敵の陣にぞ馳け入りたり。
おもいかけなきことなれば、是はと驚く佐々の軍兵包んで討んという儘に七重八重におっ取りまく。
和仁の勇士はことともせず目にもの見せんと散々に、あたるを幸いかかるも因果、
北から南、西、東、かけ立かけ立切過るはすさまじかりける次第なり。
ささえかねたる軍兵ども崩れて左右に引きあげける。
長追無用と弾正人鬼かちどきあげてそれよりも城内さしてひきにける。
弾正人鬼が身のうえは天晴無双の兵の其名は代々に伝えける。

     第四

さて本陣には
陸奥守、和仁一族のいくさの力を感じて暫し歯をかみ残念の胸をさすり、
さしうつむいて居たりしが、にっくき敵の振舞かなと味方の軍兵下知をなし、
魚りんに備えを立て直し馳けていくさを致さんと軍慮をめぐらす其折から、
さて城内には弾正人鬼、味方の勢を攻むるに石原刑部、中村治部、松尾日向に市正、原野藤弥太、草野之隼人、
その余の兵の十七騎、主従ようよう十九人とぞ聞えける。
弾正親範申さるるは、如何に方々主従わずかになりたれば、もはや勝利は叶いがたし、
今ははや是限り、ただ一戦に攻め入りて死にもの狂いにせよや
とて装束にて身をかため、和仁の弾正初めとし弟人鬼親宗に残る兵の十七騎、
すはや敵の寄せくるを今や今やと待うけたり。
然る処に成政勢、雲霞の如く攻め寄せて、ときの声をぞあげにけり。
ときの声をもしずまれば寄手の侍大将、津田の与兵衛宗貞はかたわらに聞えしつわものなるが、
鎧甲も花やかに陣頭に進み出、ただ今是に向いしは佐々陸奥守成政公の身内において、
津田の与兵衛宗貞と言うものなり、志の人あらばかかれかかれと呼はわって鎗をひねりて待ちうけたり。
城より弾正とんで出、和仁の弾正是にあり望む所に幸いと、
四尺二寸の大太刀にて打ってかかれは宗貞も心得たりと言う儘に大身の鎗にて渡り合う。
暫しあらそい戦いしが頼み切たる鎗の柄を中よりふっと切り折られ大太刀抜かんとするところへ、
すかさず弾正かけよって隙なく首を討ちたるは目ばたきならぬ早業なり。
一息つかんとするところ牛島藤七かけ寄って馳向わんず気色なり。
松尾日向、是にありいで見参と馳け合わせ、打ってかかれは牛島も心得たりと受けとめて互に手利きの豪のものども、
打てば開き上段下段、ここをせんどと戦うたり。
しばしが間の戦いに勝負はつかねば牛島は太刀投捨てつゝ立ていで、
や組んと言うなれば、それぞ望むところよと、同く太刀を投捨て肩を並べてむんずと組む、
もとより覚悟の松尾日向、牛島藤七諸共に岩瀬地蔵の岩鼻より谷に落ちて死たるは心地よかりし最期なり。
さて又、原野藤弥太に松尾が一子市正、石原形部、中村治部、
多勢が中に割て入り散々に戦いしはすさまじかりける次第なり。
しばしが間の戦いに多くの敵を討取りて其身も数か所の手きずを負い、
働き心にまかせねは近寄者ども引組みて、はや是までと死にもの狂いに働きしほ目覚しかりける次第なり。
されども敵は大勢なれば所詮叶わぬ是までと、みな差し違えて死にたりける。
中にも原野藤弥太に松尾が一子市正、敵中にて大音声、やあやあ是なる我々は只今討死仕る、
われわれどもが最期の体を武士たる者は手本にせよと腹十文字に掻き破り弐人一緒に死にたるは悼むべきかな、
年の程原野藤弥太十九歳、市正十六歳、敵にも心ある人は惜しまぬ者もなかりける、
さて又、人鬼親宗は数千の敵に取りかこまれ、
手元に進む者共を拾四五人切り伏せ三十騎ばかりに手を負せ、
追散し追散しはげしき手並に恐れけん。
近寄る者もなき故にゆうゆうとして唯一人城の東北山中に馳け登るとぞ見えけるが、生死は更に知れざりけり。
和仁の弾正親範は、四尺二寸の大太刀を打振り打振り只一騎雲霞の如く打ち囲む寄手の中に割て入り、
あたるも幸、かかるも因果、西から入れば東に出、北から南、横たてに八算形や水車。
弾正その日の働きは人間業とは見えざりけり。
またたく間に討ち取るもの三四五町のその内に死人の山を築き足の立つところもなかりける。
紅いにそむ如くにて血の波立って流るれば今の世までもこの川を血波川と言伝えける。
さて親範が働きに進みかねてぞ見えければ、和仁の弾正親範は思いの儘にいくさして、
心静かに自害をせんと宮嶽さして登らるる。
敵陣よりこれを見て神保弥五郎、杉野の又市、親範戻せ帰せと呼ばわりたり。
勇み進んで追かくれば弾正からから打笑い、やあ小ざかしき端武者ども、
この弾正が打死の冥途の供に連れんぞと大手ひろげて待ち受くれば
二人の者は左右より組んでかかるを、ことともせず、
両の小脇に引きはさみ壱人死ぬるは残念なるに是さいわいの冥途の供と、
言うより早く宮嶽の深谷底に馳け込んで三人一緒に死にたるは心地よかりし最後なり。
されは田中の城内に残る者とて壱騎もなく落城と聞えける。
大将成政悦んで一時に城を乗り取ること、抜群の働きぞと、かちどきあげて、
それよりも陣所々々を引払い行列美々しく諸軍勢、熊府の城へと引きかえす。
田中の城の人々の武勇は今に隠れなき。

     第五

さればにや和仁の城一時の烟りとなりぬれば、
中に哀れは御台様すぎし夜の騒動に姫の菊重と諸共に行方知れずになり給う。
落ち行く向うはときの声、迷う母子もさんざんに菊重の姫は只一人、
いず方こなたとさまようて出させ給うも闇まぎれ城も一時に焼き落とされ父上様も御討死、
それのみならず母さえもいかがなり行き給うらん、所詮ながら身一人の何を頼みに世をくらさん、
今この淵に身を投げて死ぬるが我身の本望と城より遙か西北に田中の下の和仁淵とて音に聞えし淵ぞあり、
いたはしや、姫君はこの川岸にたたずみて西に向いて手を合せ南無や四方弥陀如来と御目を閉じて覚悟を定め、
漲る中に飛び込んで終にむなしくなり給うは、惜むべきかな年の程十三歳を一期とし、
ここにあえなくなり給う。哀れと言うも余りあり。
いたわしや御台様、姫の菊重は何国へと敵にしられし見られじとよう和仁の城を出、
ただ一人、殿はやみやみ御討死、姫も行方しれざればこの身は何となるべきぞ
と馴れぬ道路も暮のやみ、くらさをよしや吉地村、通れはやがて野田とやら、
恋しき姫に太田黒、平野、こも田とすぎ行けば胸も江栗の里とはや、空もほのぽのと、
ねぐらはなれし飛烏、かあかあの声につれなくも心の内田村、はるかの河辺につき給う。
五更の天も晴れ行けば、いとど哀れのいやまさり涙ながらに御台様、
所詮ながらえ生き延びてかいなき憂き世にあらんより死ぬより外はあらぬ身と口に称名、
目になみだ、向え給えや御仏と漲る淵に身を投げてむなしくならせ給いしは哀れとぞは聞えける。
ところの人の習わせに和仁の御前とたてまつる。ここに一社を建立し和仁石宮とぞ祝わるる。
実に怨霊は恐ろしく御台親子の人々は渚の水の神になり
今に水無月土用には和仁石淵より水神の和仁淵までの川伝い御楽ならして登りくる
と今の世までも伝えける。
さて辺春能登守親実討って
其後は佐々陸奥守成政公より恩賞あらんと思いの外、本領安堵の沙汰はなし、
加えて成政公よりも誅せられべき風聞に何方此方へ逃げ行って程なく天の憎みを受け、
吉地の村のかたすみに不時にあえなくなりにける。
今に至りて吉地村に辺春能登守親行がしるしをここに残しける
同じくうその蔵人は主を害せし人非人と誰も憎んで其後は召仕うもの無きゆえに
たちまち罪のむくいきて迷い歩きしその果は道路の端に打ち伏してかつえてぞは死ににける。
さても今の世の人にまで主をころせし天ばつと死後の末まで哀れを留めける。
親行が一子熊市丸 当年九歳に成りけるが芋生摂津守、
預って月日を送るその内に和仁一族のものなるゆえ和仁に味方はせぎれども、
すでに領地も引き上げられ熊市丸を養育し吉地の村に居住して憂き年月を送りしが
熊市丸成長せし後は辺春と言うを軽じ、春吉治左衛門と改め、加藤肥後守清正公に召つかれてぞいたりける、
それはさておき、ここに又御台所おまきの方、つた姫君とて申せしは五歳にならせ給いしか
御祈祷所なる東勝寺清長房の世話になり時を過させ給いしが三池の何某、野の館に送らるる。
痛わしや御台様、わすれ形見のなみだの種子、三月になりし腹の子を案じくらしておわします。
月日関守り居らねば産月誕生ありしは玉も欺く男子なり。
近範君と名づけつゝともかく小野に育てられ月に重り日にまさり実に光陰矢の如く近範十五に成り給えば、
小野の館に代の末なくこの近範に相続させんと小野の家名を請け触いで
小野弥九郎治家と名乗り加藤の身内に聞えたる武勇勝れし武門と其の名は四方にかんばしく、
さて又、加藤清正は朝鮮国や我が朝に、其の名も高く聞えける、
やがて九州肥後の国熊府の城に居城して国を治め給うゆえ、
万民悦び限りなく国静たんの始めぞと皆万歳をぞ唱えける。
 (明治二十六年巳一月下旬書之 持主古川)
〔原口長之氏の校訂によるもの.熊本県教育委員芸「肥後琵琶調査」の資料より〕


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