和仁城合戦(大衆芸能資料集成3巻 三一書房 昭和57年) を,小学生高学年向きに編集しました。 肥後国一揆事件の背景 参考文献 森田誠一『熊本県の歴史』歴史シリーズ43 山川出版社1972年12月 工藤敬一ほか『熊本県の歴史』県史43 1999年4月 太閤秀吉が天下を治めると, 52人の国人によって支配されていた肥後国の治安を回復するために佐々成政を派遣。 佐々成政の経歴 尾張の春日井郡出身。 (尾張は,愛知県の西部。名古屋を中心に発展) 佐々成政は,織田信長に仕え猛将として知られていました。 天正3年,信長が越前を平定すると府中城を与えられ, ついで越中の富山城主となりました。 本能寺の変で,明智光秀によって信長が討ち取られると, 柴田勝家についたが,勝家没後は秀吉側についた。 その後信長の次男信雄(のぶかつ)を側に立ち,秀吉に対抗。 天正12年小牧の戦い織田信雄に味方をして,秀吉側の前田利家と戦っています。 四国を平定した秀吉が富山に向かったので,降伏。 その後,秀吉側に従いました。 しかし,その間の事情からもわかるように, 秀吉とは微妙な関係にありました。 なぜ,佐々成政に肥後国を任せたのかという点については, ふたつの考え方があるようです。 (1)秀吉にとっては,加藤清正や小西行長のように, 従来からの腹心というわけではなく, 破綻をきたすに決まっていた国を統治させて, 責任を取らせて切り捨てることによって 過去の勢力を一掃しようとした。 (2)外様であっても能力を高く評価し, 地勢的にきわめて重要な場所であるにもかかわらず, もっとも経営が難しい肥後の国を任せることで, 彼にチャンスを与えようとした。 どちらかといえば,(2)の方が有力な説といえるでしょう。 肥後国の状況 守護の菊池氏が滅び, 阿蘇大宮司もふたつに分裂。 家臣団は,土豪として独立。 (「国人(こくじん)」とか「国侍(くにざむらい)」と呼びます) (全国的には,「国衆(くにしゅう)」と呼びます) 国としてのまとまりを失い,国人それぞれが互いに争い, 戦国の様相を呈してきました。 これらの国人は, 佐賀の竜造寺・大分の大友・鹿児島の島津 と結びつき, 旧菊池・阿蘇氏らの所領を奪おうとしていました。 肥後国は, 東部は大友氏, 北西部は竜造寺氏, 南部は島津氏, に影響下にありました。 国人たちは,天正時代までに次のように発展しています。 隈部親永は本領800町から1900町へ。 城久基は本領800町から3000町へ。 彼らに代表される国人は, 一族共同体制から名主層を配下に組み込み, 地域的封建領主制へ移行しつつあったのです。 これは,近世の大名制に近いものといえます。 (将軍が直接に土地と人民とを支配し, 大名は将軍の命令によってそこを統治するだけの存在という形式) 太閤秀吉が天下を取ると,国人たちは大友や島津から離れ, 秀吉のもとに馳せ参じました。 もちろん彼らが望んでいたのは,秀吉の下での独立でした。 天正15年6月6日 秀吉は,越中(富山県)外山(とやま)から熊本城(古城)へ 国守として入ってきた佐々成政に,次のような指令を出しています。 ただし,これは『圃庵太閤記』に拠る史料ですが,定書の宛名に不審なところがあり, そのまま信用して歴史を考えることはできません。 とりあえず5か条を書き出してみると,次のようになります。 ・肥後の国にその方を派遣したうえは,国内の平和を保つよう賞罰を行うこと。 (1)肥後国52人の国人に先に約束したとおりの知行(領土)を渡すこと。 (2)3年間は検地をしてはならない。 (3)百姓(多くの一般人)などを痛めつけないようにすること。 (4)一揆を起こさないように,よく考えて政治を行うこと。 (5)上方の普請(土木工事)への参加を,3年間しなくてもよい。 この命令に従うとすれば, 52人衆は領地を保証されています。 佐々成政が新しい耕地を獲得しようとしても,検地はできません。 したがって, 佐々成政は,越中から連れてきた自分の家臣に 知行地(領地)を与えることができないことになります。 そこで,佐々成政は,検地を断行せざるを得ませんでした。 国人たちはといえば, 実際には天正時代までに獲得した所領の半分以下に押し込められ, そのうえ佐々成政から領地の割譲を迫られるという厳しい状況に陥りました。 佐々は検地をすることによって, 秀吉に認められた土地を奪い, かわりに散らばって存在するほかの土地を与えたのでした。 隈部・小代(しょうたい)・大津山などに代表される国人が農民と緊密な関係にあるなかで, 領地のことで強権的に命令を発することは,佐々にとってとても危険なことでした。 案の定,肥後の国は各地で一揆が起こり, 内乱状態に陥ります。 ここまでのことをまとめてみると,次のようになります。 ・佐々成政に対して検地をしないように指令。 ・国人たちには本領のみ安堵(あんど)し,天正時代までに獲得した新領地は認めない。 ・一揆を起こさないように国を治めるよう命じた。 ・この困難な統治を,一度は自分に刃向かった佐々成政に命じた。 結果として,以下のような状況になりました。 ・国内が混乱し,各地で武装勢力が蜂起した。 ・12月に秀吉は黒田・毛利・島津に出撃を要請。一揆を鎮圧。 ・秀吉は,一揆に参加した国人を,親族や同調者に至るまで斬首。 ・天正16年閏5月14日成政は切腹。検使は,加藤清正。 ・天正16年閏5月,加藤清正・小西行長が肥後国に入国。
少し難しい表現があるかもしれません。 しかし,昔の「語り」(お寺やお堂で語られた芸の一種)の雰囲気を 知ってもらいたくて,そのまま残したところもあります。 また,補ったところもあります。 和仁城は田中城とも呼ばれました。 ここでは,地名・人名・書名などを参考に, 和仁城と呼ぶことにします。
和仁城合戦 現代語訳 さて,今までのことをよくよく考えてみると, 歴史の本質として つぎのような理(ことわり)によって貫かれていることがわかります。 それは,一時の成功に気をよくして,ごうまんでわがままになった人物は 滅びてしまうということです。 このことは,かの『平家物語』のはじめにも語られていることであり, とても有名なことですが, 和仁の地にも,諸行無常の道理にしたがって 滅びていった者たちがいるので, そのことについて,これから語りましょう。 たとえば,みなさまご存知の 神の世から人の世に代わって107代目の天皇である 正親町の院の時代, 当時の武将は,以前に関白であった太閤秀吉公でございましたが, 60州以上もの国を武力で制圧され, 人々のうわさでも名高い山城の国伏見の城にご在所をすえておいでになりました。 そのころ,九州では嶋津の係累に付き従うものだけが, 武勇を誇りにし,そのことを隠しもしていませんでした。 その当時の将軍である太閤秀吉公は, 嶋津征伐の計画を内密にお立てになりました。 いよいよ計画が実行に移されたのは,天正15年4月中旬。 太閤秀吉は,大名や小名を従えて,薩摩を目指して進軍を開始しました。 さて,九州肥後国玉名郡の和仁に, 和仁の自休親長という名前の武将が,田中の城に居住していました。 この武将には,4の子供がおりました。 御家の惣領の姫君さまは,浅香の前というお名前でございました。 御年28に届かないうちに 一族の武将であった辺春の城主能登守親行と縁を結び結婚なさいました。 家をお継ぎになったのは,和仁の勘解由親実という強勇無双の兵(つわもの)でございます。 三男の弾正親範は,兄に劣らぬ強勇の者でございました。 そして,末子は人鬼親宗という名前もすごいのですが, 実際に顔は赤く,目はらんらんと輝き,髪は左右にふりわけられて, 手足はさながら熊のように太く毛むくじゃらで, その姿は,まさに鬼のようでございました。 (一説によれば,この子の母親は,大友宗麟より賜った 異国の女性であったとされています。 そのため,肌の色や眼の輝きが異なっていたのかもしれません) そこで,父であった自休も,この子を「人鬼」と名付けたのでございましょう。 御家を守る郎等(家来)には, 松尾日向守親種,一子同名市正,中村治部の少輔,原野藤弥太親宣,草野隼人宗晴 という一騎当千の荒武者が,日夜の警護怠りなく, 隙(すき)を見せずに君主一族を守っておいでになりました。 さてまた,和仁城主親実は,太閤秀吉の薩摩征伐のことを聞き及び, 肥後と筑後の国境である北の関まで出迎い, 太閤秀吉の先手の人数に加わり, 薩摩攻めの合戦で,たびたび軍功があったたので, これまでの自分の領地をそのまま継続して治めてよいと秀吉に許されたため, 和仁村吉地十町に加えて, 山鹿郡では芋生村,筑後の国は白木谷,辺春とともに 本領は首弐十町にも及んだということでございます。 一族のなかの能登守は,辺春の城に居住していました。 能登守の一族で常陸の入道喜運という者の一子である摂津守は とくに抜擢され, 山鹿の郡苧生村十二町を領地にして, 芋生摂津守親友と名乗り,芋生の城に居住していました。 しかし,肥後の国内には小城がたくさんも多く, しばしの間も戦いがないという時はありませんでした。 このため,太閤は,肥後国の騒動を治めるため, 佐々陸奥守成政を熊府の城にお下しになりました。 [田中城,戦闘モードに突入!] ところが佐々成政は,欲心が深くて肥後の国を治めるどころか, 逆に自ら戦いを始め,攻め取って亡ぼす小城も多くあったのでございます。 当然,佐々成政は田中の城も攻めとらんと思い,使者を差し向けました。 使者のことばを聞くが早いか, 田中城の将兵たちは武勇に猛る者どもたちでありましたから, 一気に戦闘モードになり, 早くも籠城の用意だとばかり 城を守る準備を始めたことこそ 気概に燃えた天晴れな行為と賞賛すべきでありましょう。 このたび,田中の城内にたてこもった人々の陣容は,以下のとおりでございます。 城の大門,日明口,かためたる大将には 和仁の弾正規範,松尾日向を初めとし其勢は都合(つごう)百五十騎, 鉄砲組は三十人,射手の達者が三十人, 用心も十分に厳重に警護をしています。 北の大手の宮嶽には, 和仁の人鬼親宗が,市正を先頭にこれも同百五十騎, 鉄砲組が弐十人,射手も同二十人, 佐々軍の到来を,手ぐすね引て待っています。 新城口には 中村治部の少輔が百五十騎を引率し, 鉄砲組は三十人,弓取武者が二十張,長柄の鎗が二十筋。 御本丸を守っているのは, 辺春能登守親行が家の子郎等三百余騎, 鉄砲これに百艇,弓取武者が八十人,大身の鎗が五十筋。 さて二の丸には, 惣大将和仁勘解由親実は,これも首騎を随えて 鉄砲組が三十人,弓取武者が弐十人,長柄の鎗が三十筋。 また,浮武者を迎え撃つための大将には 草野の隼人宗晴が百五十騎を引率し, 鉄砲組が三十人,弓取武者が三十人,長柄の鎗が三十筋。 都合其勢一千余騎。 これらの軍勢を六手に分けて配置し,厳重に警護をしたのでありました。 [佐々成政の軍勢,戦闘モードに突入!] 田中城が戦闘態勢を整えたということは,あたり一帯に知れわたりました。 佐々成政は,和仁一族が戦う意志を明らかにしたということを聞き, 「こざかしき和仁の城のやつらめ。 俺にはむかうというのであれば,ただの一度の戦いで城を踏みつぶし, そのうえで,国を安泰におさめて太閤秀吉さまにご報告申し上げよう」 と,こちらも一気に戦闘モードに入ったのでありました。 さて,両軍の衝突は避けられない状況になり, 佐々の軍勢は,戦闘態勢の整備を急ぎました。 命令を受けた松原直光は,かしこまり墨をすり終り筆を染め, 先ず一番につけたるは佐々陸奥守成政を御大将とぞ記したのでございます。 二番に松尾五郎兵衛直元, 侍大将には, 津田の与兵衛国行,直元が舎弟直重,牛島藤七,同藤弥太,神保弥五郎,杉野の又市, これらの武将によって率いられ到着した軍勢は,八千余騎ということでございます。 陣鐘,陣具,陣太鼓,御馬印や籏印,風の目の間に吹なびかせ, ころは,★年10月下旬,熊本城を御出馬なさいまして, 和仁城に押し寄せたのは,それは凄まじい光景でございました。 平和な村を襲ったこの大事件の顛末(てんまつ)は,いかがなるのでございましょうか? はたして,田中城のなかで待ち受ける将兵の未来は? そして,城攻めをする将兵たちは? 風雲急を告げる和仁の里に,平和が訪れるのは訪れるのでありましょうか? 第二段 寄せ手の総大将,佐々陸奥守成政は, 八千余騎を引率し田中の城に押し寄て,大手・搦手(からめて)・境手に陣をすえ, 戦いを告げる勝どきを,どっとあげたのでございます。 まさにそのとき, 柳川の立花勢や 鍋島方の加勢が進軍を早めて 一度に田中城に押し寄せて,宮嶽,芝塚,境原,日明口に陣を張りました。 場所もないところに一万余騎が,山や谷を埋めて, その様子は,まるで雲霞の大群のようでございました。 佐々成政は,あまりに小さな城の守りを御覧になって, 「どうだ,いかに諸侯。 この城は,わずかにまわり五町に足らざる小城, 一千ばかりの小勢でも出して攻めれば簡単に落ちてしまうであろうに, そこに立て籠もった親実の将兵たちの不敵さよ, ただ一もみに攻め落せ」 と,采配(さいはい)を手に取って取て振りあげたので, はやりきった若武者どもは, 「我こそが一番槍,軍功一の勇猛果敢な武将であるぞ」 とばかり攻め寄せたのでございました。 さて一番に進みでたのは,松原五郎直元。 黒皮縅(くろかわおどし)の鎧(よろい)を着て, 小手脚当に角甲,長身の鎗(やり)を引っ提げて陣頭(じんとう)に立ち, 「ただ今ここに出たるは, 佐々陸奥守成政公の御内(みうち)において松原五郎兵衛直元とはわが身のことなり。 望みの者あらば出向うて勝負あれ,手並を見せん」 と呼(よば)わったところ, 城中よりも武者一騎, 紺糸縅し(こんいとおどし)の鎧(よろい)を着し筋甲を猪首に着て, 小手肘当も花やかに城門開て飛びだしてきて,小高きところに毅然と立って, 「ただ今ここにまかり出たのは,城内に隠れなき春野藤弥太親宜なり, あら聞き憎き雑言かな,ここの当りが所望ぞ」 と胸板叩いて待うけしは目を篤かすばかりなり, 「では,見参」 と直元がすかさず鎗をとりのべて,ただ一突に突懸るを 藤弥太ひらりと身をかわし鎗の鵜の首むんずと握り 松原五郎直元が力に任せ引きけれども,藤弥太すかさず引く程に,互いに劣らぬ大力, えいやえいやと引き合いしがついに鎗の柄まん中よりふっと切れて 双方,その勢いでひっくり返ったでしまいました。 続いて立花方よりも由布大炊助馳け合わせ, つけ入らんとせし処へ中村治部の小輔が三人張に十三束, からりとつがい引しぼり切って放せばあやまたず,大炊助が胸板を背骨にかけて射通せば, なにかはもってたまるべき,鎧蹴放し落たるは無残なりける次第なり。 これを軍の初めとして,ひるまぬ寄手の軍兵ども,「かかれ,かかれ」と呼ばわって攻め入らんとするところへ, 城内よりは,なお引き寄せ, 弓矢取てうちつがえ,次から次へと射るほどに,名のある敵の将兵を二百騎ばかりは射落したのでございました。 もはや城の中に準備をしておいた矢も尽き果てたため, さあ外に駈けだして戦おうと,城の中の兵はそれぞれ鎧兜に身を固めて, 大門を開いて刀を握って敵のまっただ中に切り出して, 多勢の中に割って入っていきました。 鎬(しのぎ)を削り錺を割り, 向て来る敵をから竹割に斬り下ろし, (唐竹割:真っ二つに切り下ろすこと) 逃げようとする敵を大袈裟落し (けさおとし:斜めに斬りつけること)に斬って捨て, 組んでかかるは十文字, 秘術を尽して戦いける。 またたく間に敵勢六人以上を討ち取って, ときの勝どきどっとあげ, 城内はといえば,味方の勢は攻められはしたものの, 手傷を負ったものが五〜六人いるばかり, 壱騎も討死がなかったため, 先ずはめでたしめでたしと軍の門出を祝ったのでございました。 そこで, 軍神には神酒(おみき)を捧げ, 武将たちは勝利の酒宴に及んだのは, これが最後の宴(うたげ)であったことは, 諸行無常が世の理(ことわり)とはいいながら, それぞれの猛将の心中を察すれば残念なことでございました。 結果的には負け戦となった寄手(よせて)の陣の中では, 大将成政が将軍たちを集め,内議や評定をさまざまにおこないました。 「いかに各々方,このような大勢で攻めたにもかかわらず, この小城を落すことが叶わないのは残念の至りである。 味方の損害甚だしく勝利を得ることもできなかった。 これは,まことに城の防御は固く,兵糧を多く貯えて,士卒同心していたからである。 さて,いかがしたものであろうか?」 と,成政もさしうつむいていたが, ややあって策謀を思いつき, 松原直元を近く招き, 「どう思う,直元よ。 要害堅固なこの城に,勇気にあふれた武士が守っているから, 味方の勝ち目はきわめて少ない。 オレが思うには,辺春能登守親行は欲心深く義を知らず, 表の顔と裏の顔とを持った卑怯な武士と聞いているので, そやつをうまくだまして,大将の親実を討たせるのが勝つためには必要だ」 と,すぐに裏切りを勧める文を書き,矢に結び付けて, 「城の出丸を警護している親行に,この一通を届けよ」 と,直元に矢文を射させたのでございます。 親行は矢文を取りあげて,開いて見ればその文に, 「このたびの一戦は,和仁兄弟を討たんためのものであって, それ以外の武将について罪はない。 たの武将やその家族,さらに領内の民百姓を救いたければ, そなたが領主の親実の首を取って,降参をするべきである。 もしそのようにするのであれば,本領を安堵をしたうえで, 和仁が支配している領地を加増して進ぜよう。 辺春能登守どのへ。 この文は,確かに成政が送った」 と書いてございました。 辺春親行はこの矢文を見て大いに悦び,すぐさま返事を認めました。 その文には,次のように書いてございました。 「仰せにまかせ,このうえは親実を討ち取って,合図の火の手をあげましょう。 そのときに,攻め入ってください」 と,矢文をかえし,それよりずっと親実討んとすきを狙っていたが, さすが武勇に長じた者であったので,さてどうしたものかと 能登守は案じておりました。 まことに親実の運命はいかがなるのでありましょうか, その運命の行方を思わぬ者はおりません。 第三 そのような次第で, 能登守親行は,大将の親実を討とうと虎視眈々狙っていましたが, その機会もなくその夜を過ごしていましたが, ここに勘解由の近臣に, うその蔵人只宣という名前で, 口が達者で小才ばかりがあって勇気少ない武将がおりました。 その本性をよく知っている親実は, このたびの戦いに一方の将とすることもなさいませんでした。 蔵人の只宣はこれを恨みに思った様子で, そのことをよく知っている能登守親行は,ある夜ひそかに招き寄せ, 寄せ手の佐々成政公の矢文の最初から最後まで, 裏切りをそそのかす内容を逐一ことこまかに話しをしたので, 蔵人開くよりうち悦び, 「オレが親実を討つことは,何よりもってとてもたやすいことである」 とすでに裏切りを成功させたかのように話をなさいました。 親行も喜んで, 「必ず人に知られることがないように」 「少しもその気づかい御無用」 と密事を抱き,蔵人は本丸をめざして歩いていきました。 すでにその夜も暮れ果てて,うそつき蔵人只宣は, 暗殺するために隠し持っていた短刀を鞘から抜いてしっかりと握りしめ, 夜半はかりに親実の寝処に忍び入りたるは, 大胆にもまた不敵なことでございました。 ころは極月六日の夜,闇夜となった今宵を幸いとばかり, 差し足ぬき足,探り寄り, ゆめにも知らぬ親実の首をふっと掻き落とし, その首をひっさげて,表の方へと忍び出て, 辺春のもとへと急いだのは,武士に似合わぬ振舞でございました。 能登守に親実の首を見せたところ, 「でかしたぞ,蔵人殿! いざこの上はもろ共に,成政公の味方ぞ」 と,親行と蔵人只宣の両人は,合図の火の手をあげたところ, 寄手は火の手を見るより早く, 「さてこそ,城を落とすのは今ぞ」 と一度に駒を並べて攻め寄せる。 能登守親行も本丸に火をつけて,「蔵人只宣,一緒に来たれ」 と両人が,いよいよ寄手に加わって一緒になって攻め立てる。 折節吹き来る風激しく,火炎の燃え立つその勢, 難攻不落とうたわれた田中の城も, 一時の煙となって亡びていったのは,運のつきめと見えたことでございます。 ここに哀れをとどめたのは他でもございません。 御台所(みだいどころ)おまきの方,そのころ三月の懐胎なり, 御惣領のつた姫君さまは五歳になっておいででしたが, おまきの方の御嘆き, 「殿はいやしき蔵人の手にかかっての御最後, 城も一時の煙と成り, いったいこれからどうしたらいいのでしょう」 と御台様は,そのままそこにどうと伏し,たださめざめとお嘆きになったのでございます。 「つた姫君も,一緒にどうなるのか不安でなりません。ああ,なんおと悲しいことでしょう」 と,涙にうち伏しながら後心配になるのも道理であるに違いありません。 城主親実の首を取られてしまったこのうえは, 親実の弟である和仁の人鬼親宗が,原野藤弥太をひそかに招き, 「いかに親宣,よく聞くがよい。 このような事情で落城となるうえは, 兄の妻子をこれよりも光浄山長寿院に送り届けて参れ」 と,仰せになったところ,その場で藤弥太は 「かしこまりました。そのようにいたします」 と,御台所に両手を突き, 「申し上げます御台様,御両所ともにここにおいでのなっては, 敵のとりことなってしまいます。 それがしが御供をいたしますので,かた時も早く城からお逃げください」 とお勧めになったので, なくなくも裏道伝いに,ようようと原野藤弥太を供にして長寿院へと 落ち延びていったのでございました。 はやくもこがらしの吹きすさぶなかを,敵に見られないように,脱出行が知られないようにと, 夜半に紛れてようようと東勝寺へ入っていきました。 原野藤弥太親宣は,清長坊の前で手を床につけ, 「夜中に案内申すこと,他のことでもございません。 殿が討たれたため,もはや城の守りを保ちがたくなり, 御台所と姫君の御供をしてここまで参ったのでございます。 なにとぞ,御身の情にて三池小野の何某は和仁一族の係累ですから 御台所と姫君を送り届けていただるならば,今生きている限りの御恩と感謝いたします」 と申しあげれば, 清長坊は, 「その儀は少しも気づかいあるな,ともかくも御申し出のごとくに計ろう」 と,只やすやすとお請けになったので, 原野藤弥太は悦んで,ひとえに信頼なさったのでございました。 「さあ,このうえは我々は,敵のやつらにに一泡吹かせ,いさぎよく討ち死にをしてみせよう。 では,これで」 と,一目散に田中の城に馳せ帰る. ここにもうひとり親範の妻のまがきと申しあげる方がおいででしたが, 姫の菊重ともろ共に城内をしのび出て,供も連れずに只二人,其夜は行方知れざりける。 田中の城の人々は, 「心にかかるものもなし。この上は命限り働かん」 と味方の勢を改むるに,城主の親実が討れたときより, はやくも散りぢりに落ち失せて,残る兵は四十五騎ばかりしかおりません」 弾正の怒り甚だしく, 「やあ,不甲斐ない味方の奴らめ。しかし,これも田中の運命か。口惜しき次第だ」 と歯がみをして, 弾正は,桶皮胴の大鎧,鍬形打たる星甲,猪皮の腕ぬきに虎の皮のもみ足袋を あぐち高に踏みこんで,よき大太刀横たえて戦いの準備万端整えておいででした。 続いて人鬼親宗は,紺地の鎧に星かぶと,いがもの作の大太刀佩し, その余の兵の四十五騎は,思い思いの装束に思い思いの大太刀佩し, 鯨波をつくり勇みながら進みつつ,散々に敵の陣にぞ馳け入ったのでございました。 突然のこととて「これは」と驚く佐々の軍兵でしたが,すぐに陣容を立て直し, 城から出てきた和仁の軍勢の周りを包んで,七重八重に取り巻いたのでありました。 和仁の勇士はことともせず,目にもの見せんと散々に,あたるを幸いかかるも因果, 北から南,西,東,かけ立かけ立切り過ぎるそのさまは, あまりにすさまじい戦いのありさまでございました。 和仁の精鋭たちの奮闘をささえかねた軍兵どもは, 総崩れになって左右に引きあげたのでありました。 「長追いは無用」と,弾正人鬼勝ちどきをあげて, それよりは城内めざして引きあげました。 このようなしだいで, 弾正人鬼という人並みはずれた武勇を誇る天晴(あっぱれ)無双の兵の その名は代々に伝わったのでございます。 第四 さて佐々成政率いる本陣には 寝返った陸奥守が,和仁一族の戦(いくさ)の力を感じて, しばしの間,歯を噛み残念の胸をさすりながら, さしうつむいておりましたが, 「にっくき敵の振舞かな」 と味方の軍兵に命令し, 魚鱗(ぎょりん)に陣形を立て直し,敵の城を目指して駆けていき戦いを挑もう」 と軍慮をめぐらすその折から, さて城内には弾正人鬼,味方の軍勢を改めたところ 石原刑部,中村治部,松尾日向に市正,原野藤弥太,草野之隼人, その余の兵の十七騎,主従合わせてもようやく十九人ばかりになってしまいました。 弾正親範が申し述べるには, 「いかに方々,主従わずかになってしまったので,もはや勝利は叶いがたい。 今は,もはやこれ限りだ。ただ一戦に攻め入って,死にもの狂いにせよ」 とて,装束にて身をかため,和仁の弾正を初めとし弟の人鬼親宗に続いて残る兵の十七騎, すはや敵の寄せくるのを今や今やと待うけていたのでありました。 さるところに成政勢,雲霞(うんか)のように攻め寄せてきて,ときの声をあげたのでございます。 ときの声をもしずまれば,寄手の侍大将である津田の与兵衛宗貞は, その名も高き兵(つわもの)でありましたが, 鎧甲(よろい・かぶと)も華やかに陣頭に進み出て, 「ただ今ここで向かいあっているのは,佐々陸奥守成政公の身内において, 津田の与兵衛宗貞と言うものである。 志の人がもしいたら,さあ,かかってこい」 と,大きな声で名乗りをあげ鎗(やり)をひねって待ちうけていました。 それを聞いた弾正は城よりとんで出て, 「和仁の弾正,ここにあり。望む所に幸い好敵手が現れた」 と,四尺二寸の大太刀にて打ってかかれば, 宗貞も心得たりと言うままに大身の鎗にて渡り合う。 しばし争い戦っていましたが,宗貞が信頼しきっていた鎗(やり)の柄(え)を 中よりふっと切り折られ大太刀抜かんとするところへ, すかさず弾正がかけよって,あっというまに 首を討ちたるは瞬き(まばたき)する間もないような早業でございました。 弾正が一息つかんとするところ,牛島藤七かけ寄って馳せ向かおうとする気配を漂わせておりました。 松尾日向,ここに立ちふさがって「いざ,見参」と馳け合わせ, 打ってかかれは牛島も心得たりと受けとめて,互に手利き(てきき)の豪のものども, 打てば開き上段下段,ここを限りと戦いあう。 しばしの間の戦いに勝負がつかないまま,牛島は太刀を投げ捨て,すっくと立たって, 「さあ,組んで戦おう」と言ったところ, 「それぞ,望むところよ」 と,同じく太刀を投げ捨て肩を並べてむんずと組む, もとより覚悟の松尾日向,牛島藤七,諸共に岩瀬地蔵の岩鼻より谷に落ちて死んだのは じつに武士として胸のすくような最期をとげたのであった。 さてまた,原野藤弥太に松尾が一子市正,石原形部,中村治部, 多勢が中に割って入り,散々に戦ったのは,じつにすさまじい次第でございました。 しばしが間の戦いに多くの敵を討取りてその身も数か所の手きずを負い, 動きが心にまかせないので近寄る者どもを引き組みて, はやこれまでと死にもの狂いに働きしは,目覚ましい次第でございます。 されども敵は大勢なれば, 「しょせん叶わぬ。これまで」 と,みな差し違えて死んでいったのでございます。 中でも,原野藤弥太に松尾が一子市正,敵中にて大音声, 「やあやあこれなる我々は,ただ今,討ち死にをしようとしているのであるぞ。 われわれの最期の様子を武士たる者は手本にせよ」 と,腹十文字に掻き破り,二人一緒に立派な最期を遂げたのは, じつに武士らしい壮絶な最期というべきでございましょう。 年のほどは,原野藤弥太は十九歳,市正は十六歳, 敵にも心ある人は,若くして散っていったこの者を惜しむものもおりました。 さてまた,人鬼親宗は数千の敵に取りかこまれ, 手元に進む者共を十四五人切り伏せ,三十騎ばかりに手を負せ, 追い散らし追い散らし,佐々方の将兵はそのはげしき手並に恐れたのでありましょうか, 近寄る者もなき故に,ゆうゆうとして唯一人城の東北山中に馳け登っていったのでございますが, その後の生死はまったくわからなくなりました。 和仁の弾正親範は,四尺二寸の大太刀を打ち振り打ち振り, ただ一騎,雲霞の如く打ち囲む寄手の中に割って入り, あたるも幸い,かかるも因果, 西から入れば東に出,北から南,横たてに八算形や水車。 弾正のその日の働きは,人間業とは見えませんでした。 またたく間に討ち取るものは,三四五町のその内に死人の山を築き, 足の立つところもありませんでした。 紅色に染まったように血の波が立って流れたので, 和仁川は,今の世まで「血波川」と言い伝えられています。 さて親範のあまりに目覚しい働きに,佐々の将兵たちは進みかねているようにも見えました。 当の和仁の弾正親範は,思いのままにいくさして, 心静かに自害をせんと宮嶽を目指して登っていきました。 敵陣よりこれを見ていた神保弥五郎,杉野の又市, 「親範よ,戻れ,引き返せ」 と大声で呼びつけ,勇み進んで追いかければ 弾正はからから打ち笑い, 「やあ小ざかしき木っ端武者ども, この弾正が打ち死にの冥途の供に連れていくぞ」 と大手ひろげて待ち受けたところ 二人の者は左右より組んでかかるを,ことともせず, 両の小脇に引きはさみ 「ひとり死ぬのは残念だが,これ幸いの冥途の供ができたことだ」 と,言うより早く宮嶽の深い谷底に馳け込んで, 三人一緒に死んでしまったのは,まことに武士の本道をきわめた立派な最後でありました。 されは田中の城内に残る者は,一騎もいなくなり,ついに落城となったのでございます。 大将成政,おおいに喜んで 「一時に城を乗っ取ること,抜群の働きぞ」 と,かちどきあげて,それより多くの陣所を引き払い,行列を美くしく飾り立て, 諸軍勢,熊府の城へと引きかえしていきました。 田中の城の人々の武勇は今に隠れなきことと,語り継がれているのでございます。 第五 このような次第で,和仁の城は一時の烟り(けむり)となってしまいました。 中に哀れは御台様でございます。 過ぎ去ったあの夜の騒動の最中に,姫の菊重と諸共に行方知れずになってしまいました。 落ち行く向こうはときの声, 迷う母子もさんざんに菊重の姫は只一人, いず方こなたとさまよって,どこぞへ出ても闇まぎれ, 城も一時に焼き落とされ,父上様も御討ち死にをされ, それのみならず,母さえも,いかがなったものか, 「所詮この身一人のこの境遇,何を頼みに世をくらさん。 今この淵に身を投げて死ぬるが我身の本望」 と城より遙か西北に,田中の下の和仁淵という音に聞えし淵がありました。 おいたわしいことに,姫君はこの川岸にたたずんで, 西に向かって手を合せ, 「南無や四方弥陀如来」 と御目を閉じて覚悟を定め,激しく流れる川の中に飛び込んで 終にむなしくなってしまったのは,惜しむべきことでございました。 この姫君の年の程は,十三歳を一期とし,ここにあえなくおなりあそばしました。 哀れと言うも余りあることでございます。 いたわしや御台様, 姫の菊重は,いずこの国へと敵に知られることなく,見られることもなく よく和仁の城を出て, 「ただ一人,殿はやみやみ御討ち死にをされ,姫も行方しれずとなったこのうえは, この身は何となるべきぞ」 【道行文】 と馴れぬ道路も暮れのやみ, くらさをよしや吉地村, 通れはやがて野田とやら, 恋しき姫に太田黒,平野,こも田とすぎ行けば胸も江栗の里とはや, 空もほのぽのと, ねぐらはなれし飛烏,かあかあの声につれなくも心の内田村,はるかの河辺につき給う。 五更の天も晴れ行けば,いとど哀れのいやまさり,涙ながらに御台様, 所詮ながらえ生き延びて,かいなき憂き世にあらんより, 死ぬより外はあらぬ身と口に称名, 目になみだ,「迎え給えや御仏」と漲る淵に身を投げて,むなしくならせ給いしは哀れとぞは聞えける。 ところの人の習わせに,和仁の御前とたてまつる。 ここに一社を建立し和仁石宮とぞ祝わるる。 実に怨霊は恐ろしく, 御台親子の人々は渚(なぎさ)の水の神になり 水無月土用には和仁石淵より水神の和仁淵までの川伝い御楽ならして登りくる と今の世までも伝えているのでございます。 さて辺春能登守は,大将の親実を討ってその後は, 佐々陸奥守成政公より恩賞があるだろうと思っていたところ思いの外に, 本領安堵の沙汰はなし, 加えて成政公よりも誅せられるべき風聞に,あちらどちらと逃げまわって, ほどなく天の憎みを受け, 吉地の村のかたすみにて,急にあえなくなったのでございます。 今に至るまで,吉地村には辺春能登守親行の印を残しております。 同じくうその蔵人は,主を害した人非人と誰も憎んで, 其後は召し使うものがなくなり たちまち罪のむくいがきて,迷い歩きその果ては, 道路の端に打ち伏して,飢餓に苦しみながら死んでいきました。 さて,今の世の人にまで主(あるじ)を殺した天罰と,死後の末まで哀れをとどめております。 親行が一子熊市丸 当年九歳になっていましたが, 芋生摂津守が預って月日を送るその内に,和仁一族であったこともあり和仁に味方はおりませんが, すでに領地も引き上げられ熊市丸を養育し,吉地の村に居住して憂いに満ちた年月を送っておりました。 熊市丸が成長した後は辺春と言うのを軽んじ,春吉治左衛門と改め, 加藤肥後守清正公に召し使われておりました, それはさておき,ここにまた,御台所おまきの方,つた姫君と名づけられた五歳になる姫君がおいででしたが, 御祈祷所なる東勝寺清長房の世話になり時を過ごしていました。 三池の何某によって,野の館に送られました。 いたわしや御台様,わすれ形見のなみだの種子,三月になりし腹の子を案じ暮らしていらっしゃいます。 月日に関守りはおりませんから産月がやってきてご誕生になったのは,玉も欺くような好男子でございました。 この若君の名前を,近範君と名づけ,ともかく小野に育てられ, 月に重なり日にまさり,実に光陰矢の如く近範十五になったので, 小野の館に代を継ぐものがないため,この近範に相続をさせようと 小野の家名を請けついで 小野弥九郎治家と名乗り,加藤の身内に聞えたる武勇勝れし武門と, その名は四方にかんばしく, さてまた,加藤清正は朝鮮国や我が朝に,その名も高く聞えたのでございます。 やがて九州肥後の国熊府の城に居城して国を治めなさったため, 万民悦び限りなく,国安泰の始めであると 皆万歳をぞ唱えたのでございました。 (明治二十六年巳一月下旬書之 持主古川) 〔原口長之氏の校訂によるもの.熊本県教育委員芸「肥後琵琶調査」の資料より〕
©2005 office NAKAI. All Rights Reserved.